モーテンソンだより(その26: 6/21)

6月21日(火)

スケジュール表による今日の予定

  • 9:00 - 12:00 am / Writing communication in Professional Environment
  • 12:00 - 1:15 pm Mortenson Associates Presentation
  • 1:15 - 6:00 pm / Free time
  • 6:00 - 8:00 pm / Graduation Party

午前中、最後のセッションが行われた。内容は仕事における電子メールの書き方である。「なんだ、そんなことか」と思う向きもあるかもしれないが、日本でもビジネス文書の書き方みたいな本が出ているくらいなので、一定の知識とスキルが必要というくらいは理解していただけるだろう。
事実、米国では、電子メールによるコミュニケーションはきわめて一般的になっており、それをいかに上手に書くかは、大切なリテラシーになっているという。
もちろん、国により常識のスタンダードは異なるということはある。同席していたスーザンは、そのことへの注意を強く促した。

宛名、本文、結語の書き方、シグネチャには何を盛り込んでおけばいいか(プライベートな情報は入れない、など)といったことが解説される。
宛名でMr, Msはいかなるときに使うか(これはさすがに日本でもよく知られていることだと思う)、名前の愛称(たとえば、Jacksonであれば、"Jacky"は表現として許容されるのか、など)具体的な質問と回答が交わされ面白かった。

解説が一通り終わると、実際にメール文を書いて講師に送るというExeciseが課された。送られたものを講師がその場でプロジェクタ映しだし(誰が送ったかわかる情報はカットしていた)、解説を加えた。

シンプルに、わかりやすく、ということが大前提だというこのセッションは、実践的で面白かった。

このExcerciseの間に、スーザンは、例のGrant writingに関する私の計画書に関してメールを送ってきてくれた(会場の後ろにいたスーザンは、その場で私へのアドバイスを書いて送ってくれていたのである。オハイオからの帰りのバスの中で口頭で理解できなかったが故のフォローアップである)。

このセッションの休憩時間に、事務連絡がアマンダとスーザンから行われた。
今日のGraduation Partyの開催場所。
各自の出発日時、行き先、空港までのタクシーにピックアップされる時刻。
私は、22日は朝6:00発の便だったことで、4:30に宿舎を出なくてはならないと思っていた。アマンダにはタクシー会社を紹介してくれるよう頼んだのだが、結局みんなを空港から次の場所に送り届けるところまでは確実に手配してくれていたのだ。

予定では、昼食の時間が設定されてなかったが、私たちの昼食はモーテンソンセンターのほうでボックスランチを頼んでくれており、プレゼンテーションが終わったらそこで食べることになった。

午前中のセッションは12時前に終わった。
私たちは、12時からのプレゼンテーション会場とされているUndergraduate Libraryの295室へ向かった。

プレゼンの順番は事前にスーザンから以下のとおり伝えられていた。

1.Introduction by Susan
2.Academic libraries (15-20 min) - Niki
3.Public Libraries (was about 15 minutes) - Gimena
4.Egyptian Library – Heba (5-7 min)
5.Libraries in Japan – Nori (5-7 min)
6.You Tube presentations: Heba,Nikki,Mihyang – about 5 minutes.

会場には大学の図書館関係者が来るということで、例によって、菓子類が用意される。これがアメリカン・スタイルのようだ。
時間前にみなさんが入ってくる。バーバラは、私がモーテンソンセンターに、ということで寄贈した日本の震災関連の写真集(朝日新聞社刊)をわざわざ持ってきてくれて、これをみんなに紹介するといいと言ってくれた。その気遣いがうれしかった。

プレゼンはほぼうまくいった。時間がどれくらいかかったのかはわからない。しかし、原稿に目をやりつつ、途中、多少つっかえながらもとりあえず、伝えたいと思ったことは伝わったのだろう(と思いたい)。ストーリーは大要、以下のとおりである。

・日本におこった震災、津波原発事故に関する事実関係の確認
震源地と影響の及んだ地域、そして原発の位置と破壊された原発の様子の提示
・震災に関する情報を提供しているサイトの紹介。ここで、SAVE−MLAKを日本のボランティアが立ち上げたことを紹介した。
・現在、各図書館協会が行っていることの紹介(JLA、JASPUL、JANUL)
地震による被災状況(国立国会図書館筑波大学附属図書館(特に書架がほとんど倒壊した体育芸術図書館)、東北大学附属図書館(震源から最も近く、また復旧が早かった例として)
東松島市図書館(公共図書館の例として。また図書館の出前読み聞かせサービスも紹介した。)
・最後に、2-3のコメントをした。(1)震源地からの距離と被害の大きさは直接の関係はない。(2)被災した人たちは情報を求めている(特に子どもは本そのものを求めている)。(3)図書館は援助を求めている。それはある場合には組織的に行われ、ある場合にはボランティアベースで行われている。(4)優先される政策は人々の基本的な生活の再建に関することである。図書館、とりわけ公共図書館の復旧には長い時間がかかると思われる。

すでにどこかで書いたかもしれないが、このプレゼンテーション自体、こちらに来てから準備をするように言われたものだった。自分のところの紹介くらいはあるだろうから写真を持っていておいたほうがいいよとは言われてはいた。しかし、日本の事情、しかも地震といわれて往生した。ストーリーを構成することはもちろんだが、文字よりは写真を多用したほうがいいといわれたので、それを入手する必要があったからだ。ウェブを探しまわり、写真を見つくろった。
国会図書館に関しては友人を介して、担当部署に連絡を取ってもらい、時間的にはギリギリだったが使用の許諾を得ることができた。
筑波大学東北大学についてもそこの知人を介してだった。筑波大については書架の倒壊を紹介したかった。また、東北大学については、一番震源に近い大学であることもだが、私自身が震災のひと月ほど前にそこにお邪魔し、懇談したことがあったので、他人事ではないという思いがあった。
公共図書館についても紹介しなくてはと思い、いろいろ探したが、東松島市図書館が積極的に被災状況をウェブを通じて公開していることを知るにおよび、まったく面識はないのだけど、ウェブにあるメールアドレスに対して依頼をした。
いずれのところも快く使用を許諾してくれた。

ちなみに、東松島市図書館の被災写真の「アーカイブ」は以下のところである。
http://library.city.higashimatsushima.miyagi.jp/docshp/

ともかく終わった。プレゼンもだし、研修のなかでやるべきことはすべて。

Undergraduate Libraryの中にあるモーテンソンセンターにもどり、各々が昼食をとった。

そのあと、ジェイミーが簡単にメインライブラリーを案内してくれるという。今回の滞在の中で、実はこの大学の図書館を見るという時間は組み込まれていなかったのだ。もちろん自由に見ていいとは言われてはいたものの、ここが何か、というのは説明されないと分からない。

私はそれに参加した後、野口さんを訪ね、見学をさせてもらい、懇談をした。
野口さんのいるセクションは、他の図書館と統合することになっており、現在その作業の途上ということだった。
図書館のこともだが、他の話題の中で、この大学へのアジアからの留学生の数の件がもっとも印象に残っている。
韓国:800人
インド:800人
中国(大陸、台湾):800人
日本:57人
(2007年度、数は必ずしも正確ではないということではあったが)

日本人の少なさにはびっくりした。私が滞在した時期、大学は休暇期間であるからある意味日本人を見掛けないのも当然かと思いつつ、韓国や中国からの留学生は目に付いた。それとは対照的に日本人は見当たらなかったのである。
なにも少子化が直接の原因ではなく、若者が多少脇道にそれて時間を使って自分のしたい勉強をするという風潮の減退、それを助長する企業の新卒者採用重視、などなど。

情報はネットを通じて簡単に取れるようになった。また、それに接することで海外のことなどがわかった気になる。
しかし、私自身、ネットの恩恵には浴しながらも、やはり生身の人間を、お金と時間をかけて異国に送り込み、そこで勉強することはもちろん、生活することによって得られる皮膚感覚はなにものにも代えがたい、と骨の髄から思ったので、若い人には労をいとわず異国で異文化に接してもらえればと思う。3週間であってもこのように思えるわけだから、1年なりをかければさらにそれは自分の中にさまざまなことが蓄積されるだろう。

野口さんのところを辞したのち、一休みするために宿に戻った。Graduation Partyの集合時刻は17時半だ。
ちょっと横になったら30分ほど寝てしまった。30分ではあったが、自分ではどれくらい寝たのか分からないくらいの熟睡だった。

17時過ぎ、宿舎の1階に下りて行ったらロビーみんなが集まっていた。じゃあと行こうか、という感じで、会場のあるほうへ向かった。

会場は、大学のLevis Centerというところである。

これまで何度かやってきた立食パーティではなく、テーブルが用意された略式のコースである。
私たち受講生(ただしアガサとレイチェルは買い物に行ったまま戻ってきていなかった)、センターのスタッフのほかに、図書館の人であろう、そうした人たちが2,3人来ていた。
テーブルは3つに分かれ、私は、バーバラ、スーさん、ミヤン、スパスカと同じテーブルについた。話は今日のプレゼンのことから地震のこと、あれやこれや話題は飛んだ。
プレゼンに関しては、ほんとうに評価してくれているようだった。普通、米国人はああいう場では、菓子をぱくつき、となりと話をしながら聞いているものだけど、今日はそうした雰囲気は全くなかった、と評価していた。まあ、私に関しては「あいつ英語があやしいな」ということで集中してくれたのかもしれないが。

なごやかに懇談は進んだ。ただし、外は急に土砂降りの雨となった。この雨が原因だったと思われるが、アガサとレイチェルが時間に間にあわず、このパーティに結局参加できなかった。雨はパーティが終わるころには上がっていた。

私は、日本から持ってきたお土産をこの機会に受講生に渡そうと持ち込んできていた。人数が増えることも予想されたので多少多めに持ってきていた(これはあたった)。大学の「はっぱくん」というキャラクターをあしらったクリアファイルに、英語版の大学案内(営業!)、日本手ぬぐい、そして今年度図書館で作ったしおり(開館情報を示している)をセットにしたものだ。
手ぬぐいはアイテムとしてはいいとこれまでこの研修に参加していた方に聞いていたので、それにならった。やっぱり効果はあって、ここに書かれている文字はなにか(豆絞り柄に「祭」の字をあしらったものだったで「フェスティバル」の意味だ、と答えた)とか、どう使うのか(ハンドタオルにもなるし、祭りのときなどは頭に占めるんだ(と動作入りで説明した)といったことを聞かれた。お土産はなんであっても喜ばれる。
なじみのない土地から来た人たちが持ってきたものはめずらしく、希少な宝物になる。
ラシャたちがエジプトから持ってきたものの中に、パピルスでつくったしおりがあった。エジプトならではないか。

パーティもクライマックスとなった。私は懇談が適当に進み、食事が済めばそれで解散になるのだろうと思った。
しかしそうではなかった。
なんと、修了証の授与があるのだ。
それにトートバッグ、Tシャツ、ネームタグなど、「モーテンソン・グッズ」もいっしょだ。



修了証はひとりひとりがみんなの前に立って手渡され、バーバラ以下のセンタースタッフと記念写真を撮った。その場近くにいた受講生たちはまるで記者会見でカメラマンがシャッターを切るように、身を乗り出して写真を撮ってくれていた。

もう最高潮である。

「ああ、やりきったんだ」と心底思えた。

会場から宿舎までは車で来ているセンターの人たちが送ってくれることになった。私はミヤン、スパスカ、そしてスタッフのアマンダとスーザンの車に乗せてもらった。トヨタのカムリだった。しかもハイブリッド車。日本ではまだこの車種でのハイブリッドはでていなかったはずだが。
スーザンは家もエコシステムを導入していた。環境問題には敏感なのだろう。
私に向かって、トヨタの車よ、と言ってきた。私は、わかります、でも日本で走っているトヨタ車よりは大きいみたいだ、といったらスーザンは笑っていた。

宿舎に到着。お疲れ様、という感じでわかれた。
時刻は20時くらいだった。

私は、いよいよラストということで荷物をバッグに詰め込んだ。しかし意外に荷物が多く、大きいキャスターバッグと機内持ち込み用に使うトートバッグだけでは入らないという状態になってきて、だんだん焦ってきた。実は9時からはみんなが5階ロビーに集まって、それぞれが撮った写真を交換しようということになっていたのだ。

時間になると、USBメモリとノートPC(USBメモリは全員、ノートPC(むこうではラップトップPC)はほぼ全員)が持ち寄って、USBをあちこちのPCに差し込み、ピクチャファイルをコピーしていった。私が終わったのは10時くらいだっただろうか。ほかのみんなはまだやっているか、冗談のやり取りをしているのか、まだまだにぎやかだった。当然だ、今日は解放感にひたっていい日だもの。

ナイジェリアのチヌウェイにもう寝るよ、元気で、というと「オゥ!」という感じで返してくれた。両手でサムアップだ。こっちも同じようにサムアップで返す。チヌウェイはいつもこんな感じである。何日か前、シカゴ市内をみんなで移動していた際、ちょっと休憩が入った。ある建物の階段の前で座っていると、「ノリ、いっしょに写真を撮ろうぜ!」(日本語で表現するとどうしても、「撮ろうよ」ではなく「撮ろうぜ!」という語感なのである。)と声をかけてくれる。ハスキーボイスで、明るく、からっとしたキャラクターで気持ちの良い人だった。チヌウェイを見ていると、私はどうしてもジャズシンガーの綾戸智恵とのダブりを感じていた。

イタリアのヒメナにも、じゃあまた、と声をかけると"Good Sleepを″と言ってくれた。

といって部屋に入ったものの、すぐ寝るわけにはいかない。
まだ荷物をまとめきれていないのだ。あれこれやってみたが入らない。結局観念して、旅行用折り畳み式のトートバッグを引っ張り出し、それにも入れることでともかくすべての荷物を運ぶことができる状態にはなった。明日起きたらこれを下して、タクシーに乗せて空港まで行けばいい。

これでよし。

ゴミもすべてまとめた。忘れ物は…ないはずだ。

あとはシャワーを浴びて眠ればよい。

2つの目覚ましは3時半にセット。

            • -

翌日は3時ころ目が覚めた。
よかった。今回はほんとに不思議なくらい、イレギュラーな時間に目を覚まさなくてはならない時に失敗したことがない。
今回はやってしまったら致命的である。

よかった。

食事はCounty marketで買ってあったベーグルと、前日のボックスランチにあって食べきれなかったクラッカーとビスケットを鞄に突っ込んであった。これは空港で食べればいい。

下に降りて行くと、受付に明かりがついていて、スタッフ(いつもの学生といった風体ではない人たっだ。ここは24時間体制なのか?)がいた。鍵を返すと、「ベッドルームのキーは?」とわけのわからないことを聞いてくる。?? もしかしたら部屋をシェアしている人たち(女性たち)の場合は、そこもそれぞれロックできるようになっているのかもしれない(確かめたわけではないが)。スタッフは手元にあるカギの入った袋をごそごそやっているうちに、納得したのか、OKといってくれた。

タクシーはジャストインタイムで来た。

荷物を積み込み、シートに体を沈めると、ホッとした。

5時前に空港についた。一番乗りだった。6時のフライトは本日の一番便だ。
しばらくして搭乗手続きが始まる。

しかし、私が乗るシカゴ行き(そこからニューオーリンズに向かうルートとなっていた)は欠航だという。
次の7時の便でダラス経由でニューオーリンズへ行ってもらうとのこと。
来たときのように、ホテルに泊まらなくてはならないとか、そういう事態ではないので、別段あわてない。
なんやかんやいっても、ともかく安全に目的地まで運んでもらえばいいのだ。

時間ができたことをこれ幸いに、荷物の統合を試みる。くだんの折り畳み式トートバッグに入れたものをぶちまけて、キャスターバッグとトートバッグに詰め込むのである。力技で荷をまとめた結果、ともかくできた。
やってみてなんとかできるんだから、恐ろしいもんである。

7時の便は定刻に出発した。飛行機は横一列が3列しかない小さなものである。

これに乗って、次の目的地であるニューオーリンズに向かう。

こうしてイリノイ大学モーテンセンターでの研修は、すべての日程を終えた。

to be continued

I go to New Orleans

モーテンソンだより(その25: 6/20)

6月20日(月)

スケジュール表による今日の予定

  • 8:00 am / Meet in the Hotel Lobby
  • 9:00 - 10:30 am / Chicago Public
  • 11:00 - 1:00 pm / American Library Association(ALA) Headquarters
  • 2:30 - 4:00 pm / Chicago Tribune
  • 5:00 pm / Meet transportation for trip back to Champaign

朝から雷雨だった。ものすごい勢いで雨が降ってくる。シカゴは天気の変化が激しいということだったが、そのとおりだ。

8時に集合なので、ホテル内のレストランで朝食を済ませた。支払いはチェックアウト時のつもりでサインをした。そのあと鍵を返す時に支払おうとしたら、あなたのクレジットカードは登録されていないという。そうだった。チェックインの時は一人一人がせず、ジェイミーが一括して自分のカードを登録していたみたいなのだった。しばらくも押し問答(これから登録してくれ、とかキャッシュで払うとかいった)の末、クレジットカードで支払うことができた。この辺、なんだかスムースに流れない。

さて、最初の訪問先はシカゴ公共図書館である。ホテルからは近いので歩こうということになったが、雨は小雨になったもののまだ降っていた。何人かは傘をもっていなかったので、持っている人間との合い合い傘で目的地まで歩いた。10分程度だったと思う。しかし、開館時刻は9時となっており、扉は開かない。アポを取ってあるのだろうと思ったが、この時間ではないようだ。結局、時間をつぶさなくてはならないので近くのコーヒーショップへ入ってなんとはなしの時間を過ごした。この辺も、なんだかスムースに流れない。

9時になったので、コーヒーショップを出て図書館に向かった。中に入ると、説明を担当してくれるマイケルさんがすぐに出てきてくれた。自己紹介の際、日本に来たことがあるといっていた。

1時間半、各所を案内してもらった。
最初に概要の説明だったが、建物は20年建っている、米国内で一番大きい公共図書館である(単館ではということ。ニューヨーク公共図書館よりも大きいとのことだった)、調度や装飾品をふくめ、多額の資金を投入している、建物が大きいので、1階正面のデスクにプロフェッショナル・スタッフを配置し、問い合わせてきた利用者に誤った情報を伝えないよう配慮をしている、といったことだった。

まず最初に、1階にある"You-media"というスペースに案内してもらった。ここは子ども用スペース。ただし、一般にイメージされる児童スペースは2階にあり、ここはタイトルのごとく(本以外の)メディアサービスをすることを主目的としているようだった。スペースというにはあまりにも広い。3つの目的ごと(快適な環境で映像を観賞スペース、ICTリテラシーのためのPCコーナー、より高度な(といっていた)勉強をするスペース)に床が色分けされてわかりやすいようにしている。



2階は普通に言う児童スペース。広い。そして、すでに見た公共図書館と同じように、子ども用のパソコンがセットされている。

 

3階にはコンピュータ・コモンズ(Computer Commons)と称するインターネットが利用できるコンピュータ・スペース。

不況の影響もあり、利用者の6割は仕事を探すために使っているという。隣の人が使っているPCの画面は覗き見できないよう配慮してあるということで、実際に見てみたらそのようになっていた。こうした環境を作る技術があるとは聞いていたが、日本ではこうした配慮をしている図書館はあるのだろうか。
その上の階は、一般利用者の利用スペースで、分野ごと、資料ごとに配置がされている。各フロアには警備員用の家具が置いてあった。広いところなのでこうした措置(制服の警備員を配置する)をしておかないと不測の事態に対応できないという。
私はそれぞれのスペースの充実ぶり、工夫のほどを聞いているうちに、そのひとつひとつに感心しながらも、だんだん別のことを考えるようになっていた。それは、館内の壁のいたるところに、歴史上著名な哲学者や作家などの言葉がペイントされているのを気になってカメラで撮っていたことにもよる。

たとえば、最初に気づいたのは、D.ソーローの以下のような言葉。

Books are the treasured wealth of the world and the fit inheritance of generations and nations.

また、サミュエル・ジョンソン

knowledge is of two kinds: we know a subject ourselves, or we know where we can find information upon it.

この言葉の意味するところは、図書館員であればわが意を得たり、なのではないだろうか。

この日の午後訪れることになる新聞社シカゴ・トリビューンの社内でも同じように、著名なジャーナリスト、新聞人の言葉が刻印されていた。

日本でもこうした光景を目にしないわけではない。しかし、ここまで徹底されると、彼らはここで書かれていること、言われていることを心底疑っていない、それを目指して、あるいはバックグラウンドとして日々の仕事、営みをしているのではないかと思えてくる。
日本人は私を含め、本音と建前を当然のこととする。これはある意味、言われたことを実のところ完全には信じないということにもつながりやすい。「ああは言ってみたものの実際はさ…」という態度である。
仮に、こうした仮定がある程度妥当だとすると、ベトナム戦争も彼らは東南アジア地区の共産化を止めようと本気で思ってあそこまでクレイジーなことをしたのだろうと、明らかに誤った行動だったと思うが、納得する。だからそれが誤りだったと気付いた時、その反動は深刻になる(ベトナム戦争の後遺症)。このたびのイラク戦争はわからないが(戦争開始の理由となった大量破壊兵器は戦争を始める前からないことがわかっていたと、戦後明らかにされ、また、当時の権力者の戦後をにらんだ利権争いが(これは確か戦争中から)見えていたからだ)。

それはともかく、言葉を信じるということは、「確信」をもつということにつながるのではないか。ここで説明をしているライブラリアンは、自分たちがミッションとして市民に果たすべき役割を当然のこととして我々に話す。コンピュータ・コモンズに来る人の6割が職を求めているといったとき、そうした人々に図書館が果たすべき役割は何かを明確に意識している(ちなみに、9年前、マンハッタンの公共図書館に行ったとき、あるフロアの壁には、求人情報がたくさん貼られていたことを思い出す。日本の公共図書館では見たことがなかった光景だったからだ)。

かの地の図書館員は「図書館の力」(図書館は何ができるのか)を本気で信じているのだろう。だからこそ、自分たちのミッションが見えているからこそ、advocacyを重視しdonationを求める。ミッションを実現するためには資金が必要だからだ。

ある意味で、私はオハイオ州立大を見学したとき以上のショックを受けていた。
大学が図書館を整備するのはある意味では当たり前のことで、それをしない、という選択は普通はない(ありうることではあるが)。どの程度やるか、という、程度の問題(具体的には、どれほどの資源を投入するか)ということだ。
しかし、主に一般社会に生きる人々を利用者として想定する公共図書館はそうはいかない面が多々ある。社会的資源の配分をどうするか、ということからの議論となるのであり(資源は、公的セクターからものもあるだろうし、非営利セクターのもの、企業などの民間経済セクターからと、とりわけ米国は多様なのだろうが)、そこで一定の原資を確保できているということは、そのコミュニティでの図書館の存在に関する合意が形成されているということではないのか。

日本では残念ながらそうはなっていない。社会の側の原因もあるだろうし、図書館サイドの問題も(たぶんたくさん)ある。

こんなことを考え出すと、だんだん憂鬱になってくる。

といったことを考えながら館内を歩きまわり、10時半に見学を終え、みんなが外に出ようとした。

最後、出口のところの壁にあった言葉が気になった。
この図書館のミッションである。

The Chicago Public Library Mission

Working together, we strive to provide equal access to information, ideas and knowledge through books, programs and othe resources

そしてそのわきに、こんなことが書いてある。

We believe in the freedom
to read,
to learn,
to discover

この"read", "learn", "discover"は、館内にあった、この直後に訪問することになるALAが唱えていることでもある(らしい)。
見学している際、それを表示しているの気付いた。(あるいはこのCPLで唱えていることなのかもしれない)


次は、11時の予定でALAである。
さすがに歩いてはいけない距離のようで、タクシー4台に分乗していくという。ケイティとジェイミー、その友達である大学院生、そして、英語が達者なブルガリアのニッキーの4人のもとに後の人間が分かれて乗ることになた。

市内の交通は混んではいたが、11時前にALAに到着した。

ALAは創立してから100年以上の歴史を持ち、米国の、そしてある意味では世界の図書館界にさまざまな影響を与える力を持っている非営利団体だ。私にすれば、ついに来てしまった、という感じだった。感慨深い。


1時間ほどの説明をマイケルさん(もちろん、CPLのマイケルさんとは別人。予定表にある肩書には、"Director, International and chapter Relations"とあった)から受けた。

説明の中で、財政、とりわけ収入のことが説明された。それによると、収入の約40%は刊行物から、約20%は会費、それ以外を企業からの寄付(Donation)などで賄っているとのこと。
このDonationが話題なっている中で、いきなり"Japan"ということばが出てきてびっくりした。Donationは日本の図書館ではあまりなじみのない概念なので、なんで?という感じだったのだ。でも聞いてみるとこの場合は、東日本大震災で被災した図書館に対する「義捐金」という意味でのDonationのようだった。私がモーテンソンセンターでの研修の後参加することにしているニューオーリンズで開催されるALAのカンファレンスでもこのことは話題なるらしい。
諸外国では携帯電話で募金をする仕掛けがあるとのことなのだが、日本にそれはあるのか、と聞かれた。こうしたことに関して私は不勉強なので、そもそも言われている仕掛けがどういうものかも最初理解できなかった。これは休憩の際にイタリアのヒメナに言われている仕掛けについて聞いたところ、彼女は知っていたようだった。私はマイケルさんに、携帯電話での募金システムについてはわからないが、ツィッターで1回ツィートするといくばくかが募金される仕掛けがあるとフォローしておいた(これは私の友人がそれこそツィッターで紹介していて知ったことだったが)。

日本に関するDonationの話題が、通常世界の話ではなく、震災被害という異常事態によって話題になるなんて皮肉なもんだな、と思った。
マイケルさんは、多くの義捐金を送りたいが、ニューオーリンズのハリケーンによる被害もあるし、世界のあちこちで大きな自然災害によって図書館が被害を受けているので思うに任せない、というようなことを言っていた。彼らの目は常に世界に向いている。

説明を受けた後、館内の案内をしてもらった。
会館は古い建物で、使い勝手はけっしてよくはなさそうだった。しかし、部門に分かれたスタッフが、それぞれに個別のオフィスが与えられ、仕事をしている様子を見ることができた。
"Library Advocacy"なんていう部門があるのを知った。

下の写真は、ALAがキャンペーンを行ってきた"@your library"のポスターである。図書館を身近なものに、という意味を込めているのだと思うが、始まったのが、日本では、ちょうど電子メールが普及し始め、"@"の記号が社会的にも一般化してきた時期だったように記憶している。当時、私大図協の企画広報研究分科会では、早稲田大学図書館の職員だった仁上さんを中心に、ALAから学ぶべきことをいろいろ勉強していた。そのとき、この"@ your library"のことを知ったことを思い出す。

さて、次の訪問先はシカゴ・トリビューンである。私のようなものでも名前位は知っている、著名な新聞社だ。
ここを訪問先に入れたのは、そこで行われている写真資料のデジタル化を取り上げたかったらしい。

しかし、朝からのハードワークで、みんな疲れていた。雨はシカゴPLの見学を終えるころには上がっており、気温も上昇していた。
会社内に設置されている図書館(スペースは小さく、スタッフも少ない)を見、そこから見下ろせる新聞づくりを行っているフロアを眺めた。そのあと、別室に移り、デジタル化のことを中心に説明がされたが、それだけだった。所蔵資料のデジタル化は多くの図書館で課題としているところであり、抱えている問題(とりわけ権利処理)はどこも同じということのようだった。

あまり活発な議論は起きず、予定の時間になったので社を辞した。

そこから歩いてホテルに戻る。
出発まで多少の時間があったので、みんなロビーのソファに座りこんでしまっていた。

5時にJBの運転するバスが迎えにやってきた。
JBは昨日と違うシャツとネクタイと帽子で決めていた。

バスに乗り込み、一路シャンペーンに向かう。
ハイウエイの渋滞がないので、ほぼ予定の時間通りに着いた。
ハイウエイを快調に走る時間は、物思いにふけるにはもってこいで、今回のシカゴ旅行、とりわけ今日あったことを思い出して、いろんなことをつらつらを考えていた。

ハイウエイを降り、しばらく走ると大学が見えてきた。3週間も滞在しているせいだろう、緑の多い街並みが見えるとホッとする。

着いたとき、JBが「今日がみなさんとごいっしょするのは最後です。これからの滞在を楽しんでください」といったようなスピーチをした。
そう、私たちの移動をつねに支えてくれたのがJBだった。
バスを降りる際、写真をいっしょに撮ってくれないかと頼んだ。「オーライ」と快く応じてくれた。バスを降りたところで肩を組んで写真を撮ることができた。うれしかった。

夕食は買い置いてあったカップヌードルと残っていた菓子類で済ませた。すでに調理器具はケトルを残して日本に送ってしまっていたし、明日のプレゼンに向けて準備の仕上げをしなくてはならないので、時間を取っているわけにはいかなかった。

昨晩の見直しにより、原稿はほぼ問題ない状態になっていた。多少、文言の手直しをし、例によって宿舎のスタッフのところに行き、プリントアウトを頼んだ。
シンプルな、自分で読んでわかる表現を心がけた。変な演出はボロを出すだけだし、今できることしかできない。
声に出して一通り読んで見ると、10分ほどの時間がかかった。与えられている持ち時間は5分から7分。まあ、多少の超過は許してもらえるだろうと思い、準備を終えた。

ベットにもぐりこんだ時間はいつもより多少早かった。

モーテンソンだより(その24: 6/19)

6月19日(日)

スケジュール表による今日の予定

  • 7:00 am / Meet transportation at Illini Tower for trip to Chicago, Illinois

予定表にはこれしか書かれていないし、追加で何かを渡されたわけではない。
なんだかよくわからなかったのだけど、ともかく月曜日はALAに行くということだけは把握していた。

しかし、よく考えれば、今日は日曜日である。来てみて気付いたことだが、今日はやはり「休日」として扱われているんだと思った。そういえばスーザンは、けっこう前から「シカゴではどこに行きたい?」などとレジャー感覚でシカゴに行った際のことを質問してきていた。今考えれば、「観光」としての一面を持っているのが、今回の小旅行なのだろう。

さて、ともかく7時集合である。

昨日は休日でありながらドタバタと過ごし、特に最終日のプレゼン原稿を英文で作成するのにかなりの時間がかかってしまった。寝たのはけっこう遅かったのだが、その作成した原稿をプリントアウトしてシカゴに持ち込み、チェックする必要を感じていたので、朝早くに起きて出力をしようと思っていた。

昨晩は、原稿作成作業の一環で、あるファイルを出力しようとPCルーム(イリニタワーの1階にある)のパソコンからプリントをしようと思ったのだがプリンタが動かなかった。ジョブは送られているのだが、そこから先に送られていない。自分の職場であればプリンタの電源をいったん落とすなど、ある程度勝手がわかるのだが、ここは何をやってよくて何をやっていけないのかがよくわからない。結局スタッフに頼んで見てもらったが彼もわからないようだった。結局、スタッフ・ルーム(実際はタワーの受付だが)のほうで出力するから来いという。そこでデータを読み込んで出力してもらった。

そういうわけなので、今朝も出力しようとしても同じことになるだろうと思ったら、やっぱりそうなった。
再びスタッフのところへ行き、事情を説明した。彼(昨晩の担当者ではなく、交代していた)はすぐに了解してくれて、昨晩と同じように出力をしてくれた。タワーでは印刷の際に使用する紙は自前でやるというルールなので、昨晩の分も含め、ある程度の枚数を、「自分の分だ」といって置いてきた。

余計な話だが、こちらでこうした紙を買おうとする場合、500枚というのが一つの単位のようで、それ以上小分けにして売っているのはいまだに見ていない。そんなに使うことはないのに、と思いつつもそれしかないので、それを買って部屋に置いてある。
# 最後はどうするか?

さて、朝はともかくこうしてやっておかなくてはと思うことがあったので、5時半に目覚ましをセットしておいた。実際に目が覚めたのは5時前だったので、そこで起きてシャワーを浴びたりメールチェックをしたりして時間を過ごし、早くなさすぎない時刻に下に降りて、プリントアウトを依頼したわけである。

朝食を済ませ、時間に間に合うように降りたら、すでにみんなは降りてきていた。しかし韓国の二人はいない。聞いてみたら、昨日からすでにシカゴ入りをしているということだった。

バスに乗る。運転席のJBは、なんとスカイブルーのシャツにネクタイを締め、おまけにしゃれた帽子をかぶっていた。ベテランのジャスメンみたいな出で立ちだ。いつもはTシャツ、Gパン、キャップなのに。ニッキーが"Good looks!"とほめたらJBはうれしそうに"Thank you"と答えていた。何かシカゴで特別な用事があるのか? 

シャンペーンからシカゴまでは北(正確には北北東というべきか)に137マイル(220キロ)、2時間半ほどのところにある。オハイオまでの半分くらいか。イリノイ大学に来る時には、飛行機でシカゴ経由シャンペーン行きだったので、この逆へ向かっていたわけだ。

シャンペーンを出るときには小雨、その後本降りの区間が続き、どうなる事かと思ったが、シカゴの手前で雨はあがり、到着したときにはよい天気となっていた。

シカゴには10時前に着いた。宿泊するホテルに荷物をいったん預け、15時集合ということでフリータイムとなった。時間は5時間。街をぶらぶらしてもそのくらいはすぐ過ぎてしまうし、どこか博物館なり美術館へ行くとすれば、ピンポイントで1か所を選ぶしかない。

シカゴの地理がまったく頭に入っていないので、近くのマクドナルドに行ってコーヒーを飲みながら(ちなみに、コーヒーはどんなサイズでも1ドルだった)ホテルからもらった地図と、日本から持って行った『地球の歩き方』でどうするかを考えた。

いくつか行き先を検討したが、結局、シカゴ歴史博物館に行くことにした。けっこう離れてはいるが、旅行先で長い距離を歩くことは苦にしないので、写真でも撮りながらブラブラいけばいいだろうと考えた。

1時間ほど歩いて博物館に着いた。途中にはいくつもの近代的、現代的高層建築物があったので、写真を撮りながらのんびり歩いた。シカゴはともかく建築物がものすごい。

 

博物館は日曜日は12時開館となっていた。

少し早目についてしまったので、昼食代わりにと思い、近くのスーパーのような店に入り、サンドイッチを買った。私はスーパーの中をうろつくのが好きなので、そこでもうろうろしていたのだが、バースデー・カード売り場にものすごい広さが割かれていたので、つい立ち止まって見てしまった。よく見ていると、アメリカン・ユーモアが満載のカードがいくつもあり、思わず買ってしまった。こうした「お土産」はみやげ物屋でも、ましてや免税店でも手に入らない。

清算はなんとセルフレジだった。こんなのは見たことがなかった(東京あたりにはあるのだろうか?)。

機械にガイドされた通りにやればいいのだろうと思ってやってみた(画面の言語は英語とスペイン語の選択ができるようになっていた。この辺は人口構成に関する最近の米国の事情を反映している)。でも商品のバーコードの読み取りからしてうまくいかない。一つ目は読めたものの、次のものが読まれな。そうしたら店員がやってきて、読ませたものはこっちに置くんだというようなことを教えてくれたら、事実次のものが読めた。しかし今度は支払いの段階でクレジットカードをきちんと読んでくれない。何度かスロットを通したらなにかレシートのようなものが出てきたので、支払いは済んだのか自信はなかったのだけど、おずおずと店を出ようとした。その時、店員から声がかかり、支払いは終わったのかという。たぶん、と答えたものの、店員がマシンをチェックしたらまだ終わっていなかった。ここにキャッシュ(札)を入れればいいと教えてくれたのでその通りにやってみたら、あっというまに支払いは済んでしまった。

ガイドブックによると、博物館の展示はビジュアルで楽しめるとあった。事実、シカゴの歴史が文章だけでなく、多くの歴史的資料(モノである)によって知ることができた。

それをいちいち書いているわけにはいかないのでやめておくが、私の印象に残ったものの一つは、壁に書かれていた"ever changing"という文字である。永遠に変わっていくシカゴ、というようなことを言いたい文章だったのだと思う。
あとはやっぱり、NBAシカゴ・ブルズの黄金期の資料である。マイケル・ジョーダン、ロッドマン、ピッペン、クーコッチといった懐かしい選手の集合写真と、キャプテンであったピッペンのユニフォームとシューズが展示してあった。当時の試合の様子もビデオで流れたいたが、ジョーダンのすごいプレーは懐かしかった。

ホテルに戻った後は、ふたたびフリーである。

私は21日のプレゼンテーションの準備のため、夕食を買いにに出かけた以外は(日曜日なのでレストランはほとんど開いていないし、ともかく量が多いのでレストランは敬遠する傾向にある)、ホテルの部屋で原稿のチェックをしていた。結局前日書いたものの3分の2くらいを書き換えることになってしまった。

夕食を買いに出た際、あまりに長く歩いて汗をかいたのでビールを飲みたくなり、入ったコンビニで買おうとした。しかし、扉はロックされており、自由に開けることができない。開けるにはIDが必要だとか書いてあった。どうすればいいのかわからないのでしばらく近くに何気なくたって、誰かがどうやるかを見ていたのだが、後からの人間もどうすればいいかわからなくてあきらめてしまったので、結局どうにもならなかった。レジでパスポートを見せればよかったのだろうけど、そこまで動き出しができなかった。たぶん、子どもなどが買うことを防ぐためなのだろう。去年行ったフィラデルフィアでもアルコールへの規制の厳しさを感じたが、最近は多少変わってきたといっても日本はその点甘い(見方を変えれば天国)ということなんだろう。

ということで「シカゴの休日」は過ぎて行った。

モーテンソンだより(その23: 6/18 - 休日編3)

6月18日(土)

今日の予定

なし v(^^)v


7時ころ目を覚ます。
朝食は、買い置いてあったベーグルとヨーグルトとコーヒーですませる(だいたいこのくらいの量が自分にとってはちょうどよい)

iPadツイッター、メール、そしてニュースをチェックする。
原発の問題ではあいかわらず迷走が続いている。この話題は、米国滞在中に考えたこととして別建てでまとめて書きたいと思っているのでここではやめとくが、ただ、橋本大阪府知事が、原発運転再開を要請した大臣に対し、「自分がそこに住んでみればいい」とした発言にはI agree!!である。
この知事については、君が代起立強制条例を提案、成立させてしまったことには呆れてしまったが、原発に対する対応は理解できる。なんだか理解に苦しむ人だ。

さて、今日はともかく、何をおいてもイリノイを出る際に日本に送り返す荷物を出さなければならない。今日しか時間がないのだ。
モーテンソンセンターのアマンダに、どうすればいいかをメールで聞いてあった。幾度かのやり取りの後、土曜日に荷物を出すことができるのであれば、グリーン通りにある郵便局(と米国ではいうのか? Postal Office: PO)を通じて送ればいいというアドバイスを受けていた。土曜日は10時から3時まで開いているとのこと。

まずは場所を探さなくてはならない。現在ではGoogle mapを使えば簡単に検索できる。ありがたい。グリーン通りに出て、交差する3番通りに向かっていけばあるようだ。まず、一度行って、ボックスを買い求めなくてはならない。

10時過ぎにいったんPOに行き(すぐ見つかった)、送り返そうと思っている荷物の量にあうくらいの箱を購入していったん宿舎に戻る。
日本の宅配便をイメージすると足元をすくわれる。何しろ、入れる荷物について、具体的に種類と数量、重さ、金額を書き込まなくてはならない。
記入票に例示があるのだが、たとえば、"men's cotton Shirts"はOKで、"food products","toiletaries"はNGとある。

やれやれである。

30分くらいで戻ってくるとポスト・オフィスのおばさんには伝えたのだが、そんなもんじゃ終わらない。
万が一、「まあ、いいじゃん」て感じでもっていって受け取りを拒否されたらアウトである。時間はそんなにない。

ということで、しぶしぶ書き始める。

価格を細かく書かせるのは、よくよく考えれば保険がらみのことなんだろうと思ったが、いくらと書けば?
こちらに来て買ったものについては、レシートを基本的にはとってあったので、それを見て記入した。でも使ってるから価値は下がってるはずだけど… まあ、いい、そんなことは気にしていられない。
あとは記憶である。買っておいたトイレットペーパー(宿舎が補充してくれるか最初はわからなかったのでとりあえず買っておいた)も緩衝材として入れたので、それも書いた。適当、ではないが、おおよその金額を書き込んだ。
重量は個々の物なんかわかるわけないので、空欄。実際、持って行ったときに箱全体の重量で計算された。
それでも物品の種類が多すぎて書ききれない。おばさんは用紙を3枚くれたがそれでも足りない。これはメモをしてPOのほうで書かなくてはならない。

かなり重くなってしまった。これをPOまで運ばなくてはならない。

中身をチェックされるかもしれないと思い、上は閉めないで持って行った。そうしたら、ちゃんと上もテープで止めるんだよ、とおばさん。わかってますって。自己申告した内容は信用されるみたいだ。
費用は138ドル余り。まあ、しょうがない。

そんなこんなでちょうど12時に荷物送付の作業は終わった。

やれやれである。終わりに向けてのヤマはひとつ越えた。

このあとCounty Marketに行き、あと自分の部屋で摂るであろう食事の回数をカウントし、残りが出ないように最後の買い物をする。
実は、この店以外に、もう少し宿から近いところに食品を扱っている店を先日見つけたのだが、そこはデリ系の食物がない。やっぱりCounty Marketのほうがよい。

宿舎に戻り昼食をとる。

このあと、ブログの昨日の分を書き、最終日のプレゼンの原稿作りをしようと思ったのだが、眠ってしまった。
起きたら14時半だった。

18時過ぎ、ブルガリアのスパシカが部屋を訪ねてきた。大学にある日本家屋を見に行きたいので場所を教えてほしいという。自分が行ったときは、韓国のヒェイジンに案内してもらったので、教えられるほどの情報は持っていない。
それでも提供されていた構内地図にマークを付けてあったので、ここだと教えると、スパシカはだいたい分かったといって出かけて行った。この時間、外は全然明るい。

その後、簡単な夕食を済ませた後、最終日のプレゼンテーションのために必要となる原稿の作成を行った。さすがにけっこう時間がかかった。英語でのプレゼンなんて生まれて初めてである。今できる範囲で最善を尽くすしかない。

最後の休日は、こうしてあっという間過ぎてしまった。

モーテンソンだより(その22: 6/17)

6月17日(金)

今日の予定

  • 8:30 am / Transportation from Hotel to Ohio State University (OSU) Thompson Library
  • 9:15 - 11:00 am / OSU Thompson Library Overview and Tour
  • 11:00 - 12:00 NOON / Lunchen
  • 12:15 - 12:45 pm / Transportation from OSU to Westerville Public Library
  • 12:45 - 3:30 pm / Westerville Public Library Tour / Dsicussion
  • 3:30 pm Transportation from Westerville Public Library to Illinois

オハイオ州コロンバスでの図書館訪問2日目。

快晴のもと、ホテルを朝8時半に出て、20分ほどでオハイオ州立大学(OSU)に到着する。
スーザンによると、学生数は50,000人(イリノイ大学は45,000人)ということで、巨大な大学だ。またそれにあわせてキャンパスも負けず劣らず大きいし、統一感と緑とで美しい。

しばらく待ったのち、9時半、先方の用意ができたようで、プレゼンテーションルームに案内される。

ここでは、図書館の"Renovation 2000-2009"というテーマで、10年をかけて学内図書館の新築とリロケーションを成し遂げたという、壮大な話のプレゼンテーションを受けた。

学内の意見を集約するため、教員はもちろんのこと、学部学生、大学院生のそれぞれのフォーカスグループ(FG)を作り意見を求めたこと、2006年から3年間休館せざるをえなかったことから、その間の利用者に対する徹底した広報と説明を実施するなど、あげればきりがないほど、すごい話の連続だった。

その内容をすべて伝えることは難しい。しかしその中身のすごさと同時に私の印象に残っているのは、説明(プレゼンテーション、そして案内も)をしてくれた、Presentation Director(こうしたポジションがあること自体がすごい)のWesley Boomgaardenさんの熱い語りだった。ご自身もかかわったというこのプロジェクトに対し、その語りからは、計画がいかに図書館、大学の総力を挙げて取り組んだものか、出来上がったものがいかに素晴らしいか、そうしたことへの自負心をみなぎらせて熱く語るのである。(こうした熱い語りは、前日のOCLCのスタッフも同じだった。自分たちのやっていることへの自負心、確信をみなぎらせていた。もちろん、それはまったく嫌味に思えるわけもなく、ただただ感心するだけだった)

そうしたウェスレイさんのプレゼンテーションは1時間位もあっただろうか、でもあっという間に思えるほど話に引き込まれ、長さを感じなかった。

訪問者は2グループに分かれ、館内ツアーに出た。私はウェスレイさんのグループに入った。
以下はそのツアーの中で撮った写真である(しかし、なんと間が悪いことに、バッテリーが昨日の時点で切れかかっていた。途中から携帯電話のカメラで撮らざるを得なかった。悔やまれる)。

図書館入り口脇にはカフェがある。相当に広い。

入口をはいると大きな吹き抜け。建物は11階建て。上のほうに見えるのは蔵書スペース。ガラス張りで下からよく見えるし、上に上ると下がよく見える。

 

1階の床には、世界各国のいろいろな文字のプレートが。ひらがなの五十音も埋め込まれていた。ちょっとびっくり。イタリアのヒメナから、これはどういう意味をもった文字かと聞かれたので、これはアルファベットと同じ表音文字であることを説明する。

 

2階の閲覧スペース。ここはPC利用可のスペース。午後になると太陽の光が入ってくることを計算して設計されたとのこと。

 


同じ階の大閲覧室。トラディショナルな造りである。

ウェスレイさんによると、トンプソン・ライブラリーの歴史の中で、3つの節目の時期があったとのことで、現在の図書館は、そのときどき(それぞれがいつかというのはきちんと聞き取れなかった。1930年代、1950年代だったか… そして、現在を第3期ととらえる)の図書館の様子を再現したのだそうだ。この大閲覧室は第2期目に相当するとのこと。



閲覧室はレファレンス資料も置いてある。部屋の外側には日本研究用のレファレンス資料もあった。

最上階。これが第1期の再現とのこと。


(注:ここで完全にカメラのバッテリーが切れてしまいました。ここからは携帯電話のカメラで撮ったのですが、PCに取り込む手段(メモリのアダプタ)を持っていないので、帰国後、フォローアップします m(_ _)m )


ツアー後、一堂で昼食となる。
ここでもウェスレイさんの隣(というか、テーブルの角どうし)に座っていろいろ話をしてみた。
どこから来たか、趣味は何か(旅行? そりゃけっこうだ、私も好きだ。アメリカは何回目? 3回目、それはけっこう。あとはどこへ行ったことがある? おお、ヨーロッパが好きなのか、みたいな感じだ)、どこで図書館情報学の教育を受けたのか(ちょっと意外な質問。図書館情報大学修士課程、現在は筑波大学と合併… とは言ってみたものの、ご本人はご存じかどうかは…)、といったようなよもやま話だ。(ただ、ここでウェスレイさんの口から"Librarianship"という言葉が出てきた記憶がある。記憶違いかもしれないが、それでもこの言葉をこのとき、はっきりと思い出したことは自分の覚えとして記録しておきたい)
日本の地震津波による被害についても聞かれた。

ここまではだいたい社交のレベルの会話である。
しかしこの後、私がプレゼンテーションされた中身に関する質問をしたことから話題が図書館の話になった。そうするとウェスレイさんの話に俄然力が入ってきて、図書館間協力(ここオハイオはかのOHIO Linkを実現している地である)、電子リソースの現状とこれから(ジャーナル、ブック。米国では相当に電子ブックへのシフトは進んでいるらしい。日本でもそういう話は聞いていたが、こっちで聞いていると本当なんだな、と思えてくる)、電子リソースの共同購入(これはすごいと思う。サブスクリプションだけでなく、論文単位での購入など、バリエーションを付けて総体を契約することでコスト管理をしているということだった)、E-DDS、などなど、話題は尽きない。
最後のほうではリーダー論となり、リーダーはビジョナリー(Visionaly)であることと、意思決定(Decision Making)ができることが大切だと言っておられた。リーダーシップは今回の研修の統一テーマでもある。

参考:OHIO Link http://ci.nii.ac.jp/naid/110002827045

こうしたウェスレイさんの話を聞いていると思わず引き込まれ、こっちも興奮してくるのである。内容もそうだが、語り口にも影響されているような気がした。

どこかで考えとまとめたいと思っているのだが、このオハイオの2日間は、いずれも、自らの仕事を熱く語る人たちから素晴らしい仕事の成果を聞くことができた。こうしたことを繰り返していることで、なんだか、この研修に参加して一番知りたいと思っていたことが少し体感できてきたような気がしてきた。

ちなみに、ウェスレイさんのプレゼンテーション資料(PPT)のトップページには、こうあった。

The Ohio State University
A Great University
A Great Library

こうした表現が大袈裟なんて思えない。そんな現実を見せてもらった。


さて、午後はWesterville Public Library訪問である。
ここでも1時間ほどのプレゼンテーションを受けた後、見学をした。

プレゼンテーションのタイトルは、"Changing Service Models"、話をしてくれたのはAdult Servce ManagerのNiera Nuwelsさん。
ちなみに、訪問したほとんどの図書館がそうだったと思うが(大学、公共を問わず)、"Manager"という肩書を持った人たちには、きちんと独立した1室(ただし、扉はないか、オープンにされている)が与えられていた。

ここは、ICTを活用することを中心とした先進的なサービスを実践するところとして、訪問プログラムの中に組み込まれたらしい。

プレゼンテーションの中身も総じてそうした話題だった。そうした話題自体は、日本でもよく聞くところではあるので、改めてここで紹介しようとは思わない。また、モビリティ(Mobility)がキーワードといわれても、アマゾン・ドットコムでの売りあげの半分以上が電子資料になったという(ちょうど先日そんな話題がツイッターで流れていたような気がする)米国と、法的にも電子化のハードルが高く、また心情的(?)にもプリントを尊重するわが日本では同列には論じられない(と思う)。

それでもツアーに出て驚かされたのは、児童スペースの広さと、ドライブスルーによるサービスである。

写真は後日アップすることにするが、すでに訪問していたBloomington Public Libraryもそうだったが、「コーナー」なんてもんではないのである。
フロアの一角にコーナーとして設けるか、あるいはフロアの大きな部分を子ども用にデザインするか。それはもちろん現実的な制約はあるかもしれないが、それとともに基本にあるはずの「考え方」にも影響されているのではないか。
この図書館は、既成の概念を乗り越えることを大切にしているようだった。ドライブスルーもそうしたことのあらわれなのかもしれない。その部門に行って見ていたとき、本当に何台もの車が入ってきて、本の貸し出しを受けていた。


さて、ここの訪問は15時半に終了し、イリノイに帰ることになる。

OCLCのナンシーさんは、コーディネータとして最後まで付き合ってくれた。スーザンとも友人のようで、移動の際スーザンはバスではなくナンシーさんの車にずっと同乗していた。

すばらしいコーディネーションをしてもらった。

ちなみに、今回に限らず、私たちが訪問する先では、どこも周到な用意がされていたと思う。
OCLCでも同じで、昼食の手配、プレゼンテーション(テーマによって複数の人が担当した)、ツアーなど、それぞれについて担当者が手配をするということで用意がされていたようだ。素晴らしいと思ったのは、プログラムの各パートを担当した人たちに対し、コーディネータであるナンシーさんは必ず、私たちの前で、たとえば、この昼食の用意を担当してくれたのは誰々でした、素晴らしい準備をありがとう、と担当したご本人に対する感謝を述べていたことだ。

スマートで、いい慣例だと思った。
またナンシーさんはすばらしいコーディネータと思う。改めて感謝である。

この人たちとモーテンソン・センターの人たち、それに限らず図書館界の人たちは、強い横のつながりを持っていることが感じられた。これも私が気になっているポイントの一つである。

さて、15時半にWestervilleを出発、また来る時と同じ時間をかけてシャンペーンに戻ってきた。
車内では、スーザンが一人一人を呼び出し、話を始めた。スーザンが担当したGrant Writingに関するセッションのアサイメントに関するコメントを伝えるためのようだ。
私も呼ばれ、話をしたが、残念ながらスーザンのいわんとすることがうまく聞き取れず、理解しきれなかった。スーザンもそれに気づいてくれたようで、じゃあ、メールで改めてやりとりをしよう、ということになった。
申し訳ないことだが、イリノイの人たちの英語は聞き取りにくい…(自分の力のなさが問題なのだけど)

帰着は8時10分。途中、一回だけトイレ休憩を入れて、JBはハイウエイを走り抜けた。

それからゆっくりできればよいのだが、土曜日は1日フリーであるものの、日曜日は朝7時に集合、1泊でシカゴに旅行、火曜日は研修最終日で、私は日本の地震に関する現状を報告しなくてはならない。また、次の滞在地であるニューオーリンズに向かうため、当面使わない資料などを日本に送り返すなど、やらなくてはならないことがたくさんある。あとあとのことを考えると、とりあえず洗濯だけはこの日のうちにしておかなくてはならない。ということで11時から洗濯を始め、終わって寝たのが1時過ぎだった。

その間、ツイッターをチェックしていたら、NIIが2012年度を以って、WebCat(従来からあるWebCat)のサービスを停止し、CiNiiをプラットフォームとして新たな総合目録サービスを始めるという情報が流れてきた。

http://www.nii.ac.jp/CAT-ILL/2011/06/webcat_1.html

ツイッター上では、現在のWebCat Plusは総合目録としての役割を果たしていないなどと指摘する向きもあった(自分もそう思っているし、現場の人間の少なくない人たちがそう思っていると思う)。

ちょうど、OCLCで、コンピュータルームのWorldCatのサーバを見つけた時、参加者のほとんどが指をさして感嘆の声をあげているのを見てきたばかりである。

いろんなことを考えてしまった。寝るのが遅くなったのはそのせいでもある。

モーテンソンだより(その21: 6/16)

6月16日(木)

スケジュール表による今日の予定

  • 5:20 am / Meet transportation at Illini Tower for trip to Dublin, OH
  • 5:30 am / Transportation to Dublin, OH
  • 11:30 am / Lunch at OCLC

この後のスケジュールはこちらに来てから先日渡された。

  • 11:30 am / Arrive at OCLC Campus, OCLC Kilgour Building
  • 11:30 am - 12:30 pm / Lunchen
  • 12:45 - 2:45 pm / OCLC: Mission, Vision and Services, OCLC Governance
  • 2:45 - 3:00 pm / Catered Break
  • 3:00 - 4:00 pm / Communications
  • 4:00 - 4:05 pm /Session Wrap-up and Next Day Preview
  • 4:10 - 5:00 pm Campus Tour
  • 5:00 pm / Transportation from OCLC to Hotel

朝4時にセットしていたアラームで目を覚ます。今日から1泊でオハイオへの見学ツアーだ。
前の日、疲れと風邪で体調はかなり悪かったが、薬が効いたらしいのと早く寝たおかげでだいぶ楽になっていた。天気もよさそうだ。

集合時刻に降りていくとスーザンが降りてくる人間にバスに乗るよう指示をしている。
いつもより少し大きめのバス。運転手はいつものとおりJBだ。朝早くからご苦労様。

イリノイ大学のあるシャンペーンから目的地であるオハイオ州ダブリンはほぼ真東に300マイル、480キロくらいの距離だ。日本でいえば東京から神戸の先に行くくらい(神戸までは270マイル足らず。Googleによる)。これを5時間で走るのだから圧倒される。

出発前、JBから簡単な説明がある。
「今日は5時間くらいの旅程です。できればレストランに寄って朝食を取りたいのですが、ともかく急ぎたいのでそれができません、ご容赦を。」というような話だ。穏やかなユーモアに一堂から笑いがこぼれる。いい感じである。

さて、ともかくバスはハイウエイをひた走りに走った。一度トイレ休憩を入れたが、それ以外は本当にノンストップの勢いである。平均速度は体感的には100km/hくらいだっただろうと思う。私たちは思い思いに眠ったり音楽を聴いたりと好きなことをしていればいいのだが、JBはそうはいかない。もちろんプロだからきちんと体調管理はしているのだろうけど、大したものだと思う。

ノンストップ、のはずだった。しかし目的地まで40分余り残したところでバスが路肩に車線変更し、ついには止まってしまった。何か車にトラブルが起こったらしい。
JBも何が起こったのか分からないと言っている。外に出てバスのあちらこちらを見ている。スーザンはどこかと連絡を取り始めた。乗っている私たちは何にもできず、ただ座っているだけである。
それでも止まってから15分。JBが何をしたのか分からないが、バスのエンジンがかかった。一堂ホッとする。
バスは何事もなかったように快調に走り、とにもかくにも昼過ぎにOCLCに到着した。OCLCに着いてそこの時計を見たときに時間が自分の時計より1時間進んでいるのに気がついた。ここは東部時間なのだ。
着いてすぐにOCLCが用意してくれた昼食である。バスの中では多少、めいめいが持ち込んだ食べ物を食べてはいたものの朝食も食べずに移動してきたのでありがたかった。昼食にはOCLCのPresident, Vice-presidentも同席してくれた。すごい。ちなみにこのVice-presidentはプレゼンテーションも自ら行ってくれたのだが、ジョークが大好きみたいで、しょっちゅう冗談を言ってみんなを笑わそうとしていた。こういうのはいい感じだ。

昼食後、プレゼンテーション・ルームでOCLCの歴史、現在の状況、ミッションといったことが説明される。
図書館人であればOCLC(Online Computer Library Center)のある程度の歴史は知っているだろうから詳しい話は省くが、1967年に"Ohio College Library Center"としてスタートしたOCLCは、図書館の目録作業の負担を軽減するためにコンピュータネットワーク(というには当時あまりにネットワークは貧弱であったはずだが)を活用し、分担目録(Shared Cataloging)という方法を開発・普及させ、以後、さまざま先進的なサービスを展開してきた組織だ。<>
http://www.kinokuniya.co.jp/03f/oclc/oclctop.htm

今日のプレゼンテーションで印象に残った言葉は、当時、分担目録などというのは「クレージー」だと言われたということである。
当時の常識で考えればそうだったのかもしれない。しかし、当時のクレージーは現在の常識となり、それなくしては日常の業務とサービスが成り立たなくなっている。
ちなみに日本では1985年に、分担目録システムである現在のNACSIS-CATが立ち上がっている。

それともうひとつ印象に残った言葉。

until now: We go to library.
from now: The library come to you.

OCLCでは"Innovative Idea"を尊重するということだ。旧慣にとらわれない。見習いたい。

プレゼンテーションが一通り終わると、ツアーである。
多少でも部外者には秘密のエリアがあるのかと思ったらそんなことはなく、どこでも写真は取り放題だった。

建物の中には図書館があった。スタッフを主な利用者として想定する図書館情報学専門図書館である。10年あまりそこで司書をしているというライブラリアンから概要の説明を受ける。
彼が熱く語ったのは、コレクションの中でDDCの古くなった版も残し、DDCの歴史的コレクションを維持していること、そして古い版を所蔵している、ということだった。DDC(DC)の何版かは聞き取れなかったのだが、現物を実際に見せてくれた。貴重なものだ。


コンピュータ・ルームにも案内をしてもらった。
コンピュータの歴史的なところから見れば、メインフレームの時代に立ちあがったシステムである。一時は相当大きなスペースを取らなくてはならなかったらしいが、現在は相当にダウンサイジングが進んだ、という説明だった。それでも、途方もなく大きなスペースを取っている。
またここには米国の主な図書館やその他世界の著名図書館の所蔵資料の総合目録であるWorld Catのサーバが置かれている。

さすがみんな図書館員である。そのサーバを見ると、もう大はしゃぎだった。


5時過ぎにすべての予定を終え、バスに乗りホテルに向かう。ホテルは意外に近かった。男性一人なので、例によって一人で部屋を割り当てられた。ありがたい。部屋はバスタブ付きだ。さらにありがたい。イリノイ大学の宿舎にはシャワーしかなく、こちらに来てからずっとシャワーだけだった。しかもお湯がなかなか出ない。最初の夜に宿舎のスタッフがわざわざ部屋まできてそうしたことの説明も受けていたのだが、夏に向かうこの時期としても水だけというのはいささかつらかった。今日はゆっくりとお湯につかれそうだ(もっとも、ミヤン&ヒェイジンの韓国チームに聞くと、シャワーは5分から10分出しっぱなしにしておけばお湯になるんだそうだ。2、3日前試しにやってみたら本当だった。しかし、これを聞かなかったらそうはしてなかったと思う。5分以上、シャワーを出しっぱなしというのは、自分の感覚ではありえないから。)

今日、ちょっとうれしいことがあった。
OCLCからは副所長以下、3人のスタッフからプレゼンテーションがあったのだが、そのいずれもだいたい聞き取れたということだ。
正直、イリノイ入りして以来、そこの人たち、および参加者の英語がなかなか聞き取れないことにいささか(けっこう?)戸惑っていた。しゃべれないまでも、聞き取るくらいの力はつけようと、それなりに準備をしてきたつもりだったからだ。
でも今日はけっこう自然に聞き取れる。とりわけプログラムディレクターのナンシーさんの英語はクリアで聞き取りやすい。もちろん、図書館に関する特有の用語が頻出するからでもあるが、それは普段のセッションでもそうは変わらないはずだ。

なんなんだろう。
こちらに来る前に、米国といっても、その地域地域で話される英語はずいぶん違うと聞いてはいた。たとえば東部の英語と西部は、双方が理解するのが難しいくらい違っているとか(これは本当かどうかはわからない)。
参加者たちも、ブルガリアの英語であり(ただし、ニッキーはとてもきれいな英語を話す)、エジプトの英語、アフリカ各国の英語、韓国の英語、中国の英語、イタリアの英語、をそれぞれ話している。よく聞くと、それぞれ、微妙に違っていることに気づく、でも基本的な意思疎通はさして問題がない、というのが現実なのだ。

とりあえずあまり深く考えることはよしておくが、今日は言葉の面でちょっとだけ安堵した日でもあった。

モーテンソンだより(その20: 6/15)

6月15日(水)

スケジュール表による今日の予定

  • 9:00 - 10:30 am / Communication and Marketing for Library Donors
  • 10:30 - 12:00 pm / Using New Technology to Serve Undergraduate Users
  • 12:00 - 1:15 pm / Lunch at Illini Tower
  • 1:15 - 2:00 pm / Take public Transportation to the News Gazette, Champaign,IL
  • 2:00 - 4:00 pm / News Gazette Tour

明け方からものすごい雷雨となった。音だけ聞いているといよいよあのトルネードが来たか、という感じだった(トルネードの音も姿もじかには見たことがないのだけど。またトルネードが起こった場合の対処方法は、モーテンソンセンターからの連絡にも入っていたし、見学先各所でも避難指示の案内板があるなど遠い世界の話ではないようだ)。
でも何人かは同じようなことを言っていた。

それとは直接関係ないが、どうやら軽い風邪をひいてしまったらしい。"too hot!"とみんなが言い合っていた先週までとうって変わって気温が下がり、とりわけ明け方から午前中が寒い。
体力が落ちているところにこの気温の変化でやられたんだろう。

こちらに来る直前、やはり風邪をひき、医者から薬を処方されていた。それが少し残っていたので、万が一を考えて持ってきてあった。とはいっても1回分程度である。咳が出るという症状だったのでそれが収まればと思い、服用したが、それが効いている間はおさまっていた。しかし、その効果が切れるころになると再び咳が始まる。
ちなみに、家を出るとき、薬箱から持っていけばいいだろうという薬を片っ端から取り出して荷物の中に放り込んだ。その中に「葛根湯」もあったのだが、こちらに来て今回見てみたら箱の中身は空だった(^^;;

やれやれである。

さて、そんななかでの一日の始まりである。

午前中はDonors、すなわち寄付をしてくれる人や機関との効果的なコミュニケーションについて、というテーマでのセッションと、学部用図書館が実際に行っているICTを活用した学生サービスについてである。

こちらで図書館のことを話していると、Fundとか寄付とか、あるいは外部資金とかそうした話がしきりに出てくる。先日のGrantを獲得するためのノウハウというセッションもそうしたものだ。
ここは日本人である私と他の人たち、とりわけヨーロッパといっていいだろうか、とどうも前提が違っているような気がしてならない。
日本で図書館の運営に関するお金の話をすると、その中心は大学の場合はその予算の枠の中でいかに必要な額を獲得するか(最近は減らされないようにするか、のほうが多いか?)が中心的関心事で、外にある資金を獲得しようという視点はそれほど強くない(それでも最近は変わりつつあるかもしれないが)。

先にイリノイ大学の野口さんと話していてこうしたことが話題になった時、聞いてみたことがある。そもそも、大学の教員は日本の教員のような研究費を持っているのですか、と。答えは「ない」ということだった。だから外からお金を取ってくるしかないし、必要な図書資料は図書館に頼んで買ってもらうしかない。そうしたことのようだ。

また、以前読んだ本の中で、米国では政府系のお金の循環(税と財政によるその配分)とは別に、非営利でのお金の循環(非営利団体への寄付とその運用)がかなり大きな規模で存在する、というようなことが書かれていた。米国の資産家が一定の成果を上げた後は、その資産を寄付したり、自ら財団を作ってさまざまな社会的活動をするということも。図書館にとってはカーネギーがその代表的なものであるし、最近ではマイクロソフトビル・ゲイツもそうだ。

日本でも、寄付という行為については税制上、一定の優遇措置を講じて、こうした非営利セクターにお金が回るようにすべきだという議論はあるもののそれほど本格的なものとは思えない。
それはともかく、こうした、社会におけるお金の循環の仕方の違い、というのが非営利セクターである図書館がどうやって資金を獲得しようか、という際の行動パターンの違いとなって表れているのだろう。取り組み方もおのずと異なってくる。
もっとも、これからはそうしたことではたぶんやっていけない、たぶん。
だから、今回のDonorsとのコミュニケーションというセッションはいずれ役に立つ、きっと。ただし日本には日本流の文化なり手順があるから、米国の方法論のコピーでは不十分だろうけど。


午後のセッションは面白かった。
私たち日本の大学図書館員の多くはundergraduateの学生を主なサービス対象としている。その意味でこのセッションで紹介されたいろいろな取り組みは興味深いものだった。このことに限らないが、米国の図書館のすごいことの一つは、新しいメディア、サービスには積極的な対応を試みることである。
Youtubeもその一つであることを今回まざまざと感じているのだが、以下のところで見ることができるビデオの数々はぜひとも紹介しておきたい。

http://www.library.illinois.edu/ugl/about/videos.html

とりわけ、"Library Instruction UGL Intro Rap Video"は傑作である。2分半ほどの図書館紹介ビデオなのだが、ラップのリズムに乗ってナレーションが流れるというもので、笑える。

ユーモアのあるこんなサービスをしてみたいものだ。別段、大学図書館だからなんて構えることはないだろう。要は伝えたいことが伝わればいいのだから。栄養のあるものだって味付けが悪ければ人は口にしない。

ほかにもiClicker(質問に対して答えの番号を押すとそれが即座に集計され表示されるという仕掛けとそのデバイス、日本でも大学の授業とかで導入されている例はテレビか何かで見たことがある)を使ったインストラクション
など、感心しきりだった。

午後はNews Gazette社という地元の新聞社の見学だった。
そこで先日そのコミュニティにいったアーミッシュの人たちに関する本を出しているということが紹介されたので、1冊買い求めた。アーミッシュの人たちは写真を撮られることを好まない(だから訪問した時には注意するよう
にとあらかじめ言われていた)と前に聞いていたが、写真も多く掲載されており、是非にと思って入手したのだ。

ちょうど帰るとき、にわか雨が降ってきた。急いでバスに乗って帰ろうということになったと思ったのだが、みんなが駆け込んだのはバスステーションではなく、その近くにあるバーだった。一休みのつもりだったのだろうが、コーヒーを頼む人の一方で軽いアルコールを頼む人もありで、30分から1時間程度だっただろうか、よもやま話をしていた(以下の“A”は私である)。

Q:日本で有名なビールは何?
A:“エビス”というビールだ (注:個人的好みによる)
Q:どんなビール?
A:まあ、ピルスナーの一種だ
Q:(エジプトのラシャから)日本人はどんなものを食べるのか?
A:寿司は有名だけど、あとは刺身とか… (刺身の説明をミヤンがしてくれる)
Q:(韓国のミヤンとシェンウェイ)ビールのサイドディッシュは何?
A:刺身とかキムチ…
ミヤン&シェンウェイ:ワオ、アンビリーバブル! ビールの場合はチキンとかでしょ
ラシャ:キムチってどんなもの?
A:コリアン・ピクルス…?
ミヤン:ノーッ! (と、キムチの説明を始める)

ここで私は居酒屋の説明を試みる。
ジャパニーズ・バー(居酒屋のこと。あってるかどうかはわからないが、うまい言葉が見つからない)にはいろんな種類のお酒が置いてあって、そこにはビールのほかに、ジャパニーズ・スピリッツ(焼酎)、ジャパニーズ・ワイン(日本酒)や、JINRO(ここで韓国勢は、「おー、JINRO」と感激の様子)など、いろんな酒が置いてあって、サイドディッシュも種類が豊富、ビールとキムチの組み合わせは普通だ、というような説明をした。わかってもらえただろうか?

そうこうしているうちに雨が上がったので、結局歩いて帰ることになった。News Gazette社のあるところはそのくらいの距離なのである。
私は、County Marketで咳止めを買うため、みんなと別れた。

County Marketには何度となく行っているので、サプリメントや薬らしきものが置いてあったことは漠然と記憶していた。通路の表示を見ていたら"Cough & Cold"とあるのが見えたので、そこに行って少し見回してみたら、胃薬や痛み止めの脇に風邪薬が置いてあった。
服用にあたっての注意事項はたくさん書いてあるのだが、服用する量についてははっきりと書いていない。まあ何とかなるだろうと思って、咳と風邪全般に効くと書いてあるものを買った。

宿舎に帰って夕食を済ませると6時だった。部屋に戻り、先に買った薬を服用する。2錠を一度に飲むようになっていたのでそれを服用し、すぐにベッドにもぐりこんだ。
そこからは夜一度だけ起きたが、その後は朝まで熟睡だった。


(注)
ということで、この日は早くに寝てしまったので、この日記は翌日の早朝と17日の夕方に書いてます。ご容赦を。