「ファーストネーム」の社会について(モーテンソンだより:補遺2)

日本人が「ファースト・ネーム」と言われた時、思い浮かべるのは、「ああ、名字ではなく名前のほうね」という感じだと思う。私を含め。

名字は「ラストネーム」、人によっては「ミドルネーム」が入るのが、欧米の社会である。
オンラインでホテルやシャトルバスの予約をしたりとかするときに、大体の場合ファースト・ネームから入力する。

しかし、この「ファースト・ネーム」という言い方は、人々の人間関係の中で私たち日本人が考えている以上の重要な位置を占めているのだということに、長期の滞在だったが故に触れることができたように思う。まさにファースト・ネームは"First"なのだ。

人々は、お互いをファーストネームで呼び合う。
モーテンソンセンターでも、所長のバーバラ、副所長のスーザンでも、お互い、あるいは私たち受講生、スタッフの間ではもっぱらファーストネームだった。
もちろん、最初はラストネームだったと思う。バーバラにシャンペーン空港まで迎えに来てもらったとき、バーバラが私を見つけてくれた最初の一言は"Mr.Suzuki?"だったと記憶している。

私の名前は"Masanori"なので、はっきり言ってファースト・ネームとしては使いづらい。そのことはあらかじめわかっていたので、バーバラの家での歓迎パーティの際、自己紹介で自分を"Nori"と読んでほしいと言っておいた。
以後、私は、"Masanori"ではなく"Nori"としてモーテンソン・サークルのなかでアイデンティファイされることになる(ただし、韓国のミヤンだけはときに"Masanori"と呼びかけていた。隣国韓国でも、姓と名の関係については、米国と違うという感触を持っていたのかもしれない。)

ここで思い出すのは、数年前に亡くなったロシア語通訳で作家の米原万里が自分とそして妹さん(ユリさん。ちなみに妹さんは故井上ひさしのお連れ合い)の名前の由来について書いてあった文章だ。
氏の母親は、万里さんが生まれた際、外国人との間でもファースト・ネームで呼ばれやすくという配慮から、"MARI"と付けたのだという。
そうした配慮が、ある意味でとっても妥当性を持っていたことについて、今回の滞在で思い至った。

もちろん、初対面からファースト・ネームで呼び合うということはないだろう。
しかし、日常のコミュニケーションでファースト・ネームを使うことは、その距離感、関係性(上下か、フラットか)という点において、日本のように姓をつけ、さらに肩書を付け呼び合うという文化とは大きく異なる。

もちろん、現代の東アジは姓を基本とする社会だと思う(しかし、これについて思い出すのは、2002年夏に語学研修でニューヨーク郊外の大学に滞在し、台湾の青年と部屋をシェアしていた際、私は彼の本名をついに知る機会を得なかった、ということである。彼は自分のことをずっと"Jerry"と称していたのだ)。

それは文化、慣習の違いであるので、いいとか悪いとかの問題ではない。
しかし、日本の組織の中で、肩書を付けて重々しく呼ぶということについて、私は正直辟易している。相手を尊重するというのは、何も肩書を付けるということだけでもなかろうと。教員はやたら「○○先生」と「先生」を付けたがる。

日常では「○○さん」でいいではないか。
そうしたほうがきっと風通しは良い。