受講者の母国のことと英語のこと(モーテンソンだより:補遺1)

帰国してから3カ月余りが過ぎまた。その間,海外研修に関しては,経費精算くらいしかやることができず,現地で考えたことなどを書くことが遅れに遅れました。
これから少しずつ(数回ですが)書いていこうと思います。

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今回のモーテンソンセンター・プログラムの参加者は遅れてきた2人を含め、全部で12名だった。
滞在中、彼女たちの母国について、時につらつらと考えていた。

参加者の地域別、国別内訳は以下の通りだ。

■ヨーロッパ
イタリア: 1
ブルガリア: 2

■中東
エジプト: 2

■アフリカ
ウガンダ: 1
ナイジェリア: 1
ガーナ: 1

■アジア
中国: 1
韓国: 2
日本: 1

オハイオへの小旅行の際、私たちはアーミッシュ(Amish)の人たちと接する機会をもったが、私はアーミッシュの人たちのことをなんにも知らなかったので、持っていた電子辞書の英和辞典やブリタニカでそれを調べていた。それを脇に座っていたウガンダのレイチェルが覗き込んでいたのだが、私がアーミッシュのスペルを"a,m,i..."と入力していると、彼女は、"amin"を見せてほしいと言ってきた。
"Amin"、いうまでもなく、ウガンダの元大統領で、残虐行為の数々を行ったことで知られる人物だ。レイチェルの年齢は定かではなかったが、アミン大統領の時代に生まれていたとは考えにくかった(アミンは1979年に亡命したと事典にはあった。すでに30年を経過している。)とすると、係累がなにか犠牲になったことがあるのだろうか? 何がしかの関係があるのではと考えるとともに、若いレイチェルが気にするほど、かの国でのこの暴君の影響はすごかったのかと思わずにいられなかった。

エジプトのラシャとヘバとは、研修が始まったころになんとはなしの話をしている際、いわゆる「ジャスミン革命」のことが話題として出てきた(誰かが話題として持ち出したのだったと思う)。
彼女たちは、チュニジアで始まった一連の動きに関連し、「ジャスミン革命」という言葉は一般的ではなく若い人たちが使っているだけだと言っていた。そして、(その名称はともかく)これにより社会の自由度は高まったと言っていた。ある意味で、もっとも現代のホットな動きを当事国の人たちから聞いたわけだ。
ちなみに、「ジャスミン革命」というレッテルがけっこういい加減(というか、ラシャたちが言うのと同じ意味で一般的ではないこと)は、ジャーナリストの日垣隆氏が氏のメールマガジンで、実際見てきたこととして、指摘をしていた。

以下、引用(ガッキイファイター,2011年4月17日号)

チュニジアで起きた市民革命は「ジャスミン革命」と呼ばれるが、これはフランスのAFPの一女性記者が勝手に思いつきで付けた名前。今回チュニジアで話した現地の人は誰一人として、そもそもジャスミンの木を知らず、自国で起きた革命を「ジャスミン革命」と呼んでもいない。呼ばれているのも知らなかった。


ブルガリアは、第二次世界大戦後、社会主義国として歩んできた国だ。それが1989年に始まる一連の東欧革命の中で政権が交替、というだけではなく、社会の価値観を大きく転換せざるを得なかったという歴史を経てきている。ニッキーとスパスカは年齢的にもあきらかにこの変化を(何歳でかはわからないが)実際に体験したはずだ。
ニッキーが職場とする大学は!"American University"である。ウィキペディア(英語版)によると、この大学は1991年に成立したとある。
http://en.wikipedia.org/wiki/American_University_in_Bulgaria

ニッキーの流暢な英語の背景にはどういった歴史があるのか、そんなことをつらつらと考えさせられる。

アフリカから来た3人の母国の公用語はいずれも英語である。これは、くどくどいうまでもなく、歴史上イギリスの支配を受けたことによるといっていいだろう。イリノイの人たちの英語とも、ニッキーの話すそれとも(微妙に)異なる(というのは私でもわかる)英語を話す。
しかし、インドの例を出すまでもなく、さまざまな「方言」を派生させつつ話者を増やしつつある英語を日常使っていることのアドバンテージは、私の目から見ると明らかであった。

私を入れたアジア系の4人のうちで英語を母語としている国から来ているものはいない。韓国のミヤンは米国留学の経験から,同じく韓国のヘイジンは、たぶん自分で努力をしたのだろう、会話には十分すぎるほどの英語の能力を発揮していた。中国からの人間と私は、かなり苦労したというのが実際のところだった。
イリノイ大学図書館の野口さんも、日本からの派遣者はいずれも英語で苦労していたようだとおっしゃっていた。

しかし臆することはないと思う。それなりの準備(私自身は英会話学校に半年通った)をすればある程度の力の向上は見込めるし、あとはどれほど使うかである。
正直なところ、帰国直前になって現地の人たちの会話が自然に聞き取れるようになったのは皮肉なことではあった。